2009.07.01

三又又三的日常

 
人はいろいろなことを考えている。
 ジョーダンズの三又又三(みまた・またぞう)もその一人だ。彼はあまりいろいろなことを考えすぎるためか、その言動には意味不明なものが多い。
 こんな人が近くにいたらめんどうだが、話として聞くとなかなかおもしろい。 
 もちろん、三又的な人はあなたの身の周りにもたくさんいるはずだ。両親や友人、近所の方々、職場を見渡すとあの顔、この顔がちらつくだろう。そもそも自分が一番似ているかもしれない。
 しかし三又的な人種が一番多いのは――気になる、といった方が正しいか――職場ではないか。その具体的な影響は決して小さいものではないからだ。
 とはいえ、神様からすると僕らはひとしなみ三又的人種に見えるのだろう。
 いわば僕らは沈没しつつある船の中で次期船長を狙っている船乗りたちのようなもので、その頃神様はクーラーの利いたレストランで冷えたシャブリを堪能しているのかもしれない。
 そういえば、最近きりっとしたシャブリを飲んでいないし、ついでにぴりっとしたベトナム料理も食べていない――いや、これは余談だ。
  
  
 下は「すべらない話」の宮川大輔。三又的日常が炸裂している。
   
 

 
(BGM):The Beatles [ I Am The Walrus ]  (1967)
 
posted by dear prudence at 23:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読む

2009.06.25

快晴、“Lollipop”(Mika)

 
久しぶりの晴れだ。
 気持ちよくて口笛を吹きたくなる。
 外をどこまでも歩きたくなる――いや、それにしてはもう暑いか。そういえばこの前、夏至を迎えたばかりだ。
   
 こういう快晴の日には明るいポップスを聴こう。
 梅雨のあける日を心待ちにボリュームを上げると、からりとした夏空が待ち遠しくなる。
 どんなポップスがいいだろう?
 たとえばMikaの“Lollipop”はぴったりだ、と思いませんか。
 
 

 
(BGM):Mika [Lollipop]  (2007)
 
posted by dear prudence at 23:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 聴く

2009.06.22

梅雨のアヴエ・マリア (三好達治)

 
三好達治の詩をたまに読む。彼の詩は上品で、香気に満ちていて、人をいやな気にさせない。単なる西洋かぶれでないところも好きだ。
 彼は多くのタイプの詩を発表したが、よく読み返すのは昭和初期の作品で、詳しくいうと詩誌「詩と詩論」に関わっていた頃の詩である。なかでも好きなのは「アヴエ・マリア」だ。
 
 
 アヴエ・マリア    三好 達治  (「詩と詩論」5号、1929.9)
   
 鏡に映る、この新しい夏帽子。林に蝉が啼いてゐる。私は椅子に腰を下ろす。私の靴は新しい。海が私を待つてゐる。
 
 
 私は汽車に乗るだらう、夜が来たら。
 私は山を越えるだらう、夜が明けたら。
 
 
 私は何を見るだらう。
 そして私は、何を思ふだらう。
  
 ほんとに私は、どこへ行くのだらう。
 
 
 窓に咲いたダーリア。窓から入つてくる蝶。
 私の眺めてゐる雲、高い雲。
 
 
 雲は風に送られ、
 私は季節に送られ、
 
 
 私は犬を呼ぶ。私は口笛を吹いて、樹影に睡つてゐる犬を呼ぶ。私は犬の手を握る。ジャッキーよ。――ブブルよ。――まあこんなに、蝉はどこにも啼いてゐる。
 
 
 私は急いで十字を切る、
 落葉の積つた胸の、小径の奧に。
 
 
 アヴエ・マリア、マリアさま、
 夜が来たら私は汽車に乗るのです。
 私はどこへ行くのでせう。
 
 
 私のハンカチは新しい。
 それに、私の涙はもう古い。
  
 ――もう一度会ふ日はないか。
 ――もう一度会ふ日はないだらう。
 
 
 そして旅に出れば、知らない人ばかりを見、知らない海の音を聞くだらう。

  
 
 映画のシークエンスが目の前を流れていくように鮮明で、言葉の中にしかない西欧への憧れが漂い、しかもそれらに沿って和歌の抒情がうまく使われている。
 こういう人工的に透きとおった感傷は夏に読むと涼しい。
 そして三好の「アヴエ・マリア」を読んでいると、胸のうちにはこの世のどこにもない晩夏の風景――たそがれの空に西日が映えわたり、秋を予感させる風が窓のカーテンをゆらすような――を思い浮かべる。
  
   
 
(BGM):エミール・ギレリス
     [グリーグ 抒情小曲集 Op.38-1 Berceuse “Cradle Song”] (1974)
 
posted by dear prudence at 21:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読む

2009.06.19

新緑

  
先日、どこで撮ったか分からない“迷子写真”のことを書いたが、下の画像もそんな一枚だ。
 日付はいたって明瞭で2005/6/19とある。4年も前だ。
 その頃、僕はデジカメを持っていなかった。ついでに九谷焼のコーヒーカップも持ってなかったし、カール・ベームのモーツァルトのCDも持っていなかった頃だ。
 なので、写真は携帯で撮ったことが知られる。
 しかし、どこで撮ったかはまったく分からない。大海をさまよう帆船から地平線を眺めた時のように記憶は沈黙したままだ。
  
 それにしても新緑の光が心地よさそう。
 
  

  
(BGM):リリー・クラウス(ピアノ) [モーツァルト 美しいフランソワーズによる12の変奏曲] (1956)
 
posted by dear prudence at 00:11 | Comment(2) | TrackBack(0) | 読む

2009.06.18

黄梅時節家家雨

 
最近、一番憧れる言語芸術は漢詩かも、と感じるようになった。
 シブすぎる。
 もっと気楽な趣味がよかった。好きな音楽はGreeeenで、忘れられない本は「チーム・バチスタ」シリーズと「君空」であり、映画「ターミネーター4」はなかなかの出来だった、とか言いたかった。
 しかし、自分が千年前の漢詩に惹かれていることに気づいたのはいつだったろうか?
 
 …と書くとかっこいいが、実際にやっていることはたいしたことではない。
 2日に1度、それも10分ぐらいの間漢詩を眺め、「かっこいいなあ」と一人合点するというだけだったりする。
 梅雨を詠んだ詩で好きなのは次の宋代の詩だ。
 
 
   約客      趙師秀
   
   黄 梅 時 節 家 家 雨
   
   青 草 池 塘 処 処 蛙
   
   有 約 不 来 過 夜 半
   
   閑 敲 碁 子 落 燈 花
 
 
   (客と約す
   梅雨の頃は、どの家も雨に降りこめられる
   青草の茂る池の堤では、蛙があちこちで鳴いている
   降り続く雨のためだろうか、約束していた客が来ないまま、夜半が過ぎてゆく
   暇をもてあまして碁石をぱちんと打つと、その拍子に灯心の残りがはらりと落ちた
   『中国文学歳時記 夏』「梅雨」項 〔同朋出版、1989〕 )

 
 いいなあ、と思う。
 少し時間がある時、こういう漢詩を眺めながら酒杯を傾けて音楽をかけることもある。詩・酒・音楽…まるでエセ隠者だ(笑)。
 しかし、好きな詩を読みながら何を飲んで、何を聴こうかと考える瞬間はなかなか楽しいものだ。
 唐代のパワフルな漢詩なら、九谷のあでやかな猪口に紀伊の“羅生門”を注いでLed Zeppelinの”Rain Song”を聴こう、とか。
 宋代のさらりとした漢詩であれば、ブルゴーニュのストレートで飲みやすい赤をリーデルグラスに注ぎ、チーズをのせたバケットをかじりながらコルトーのピアノを聴こうか、とか。
 めちゃくちゃな取り合わせであるが、こんなことを考えていると幸せにはなれるのだった。
 酒がすすんだ時は筆ペンを持ち出して筆写することもある。
 半紙に好きな詩を書き連ねるのだが、自分の字があまりに下手なので笑ってしまうことも多い。
 そういう時、イヤなことはたいてい忘れることができる。
 
 
(BGM):アルフレッド・コルトー(ピアノ) [シューベルト  リタニー(祈り)]  (1948)
 
 
posted by dear prudence at 00:10 | Comment(2) | TrackBack(0) | 読む

2009.06.15

古都と保田与重郎

 
10年ほど前になるだろうか。
 お金はなかったが時間はたっぷりあった頃、保田与重郎の本を片手にたびたび奈良を散策していた。
 天気のいい朝、今日はどこに行こう? と考える。前回は初瀬の方に行ったから今回は法隆寺あたりを歩こう、とか。のんきな時代だ。
 そんな奈良への小旅行にいつもかばんに入れていたのが保田の古書だった。
 マニアは小林秀雄以上の批評家と絶賛される一方、ウルトラ右翼のファシスト煽動者と毛嫌いする人もする。今も評価は定まっていない。安全無害な教科書などには絶対に載らない評論家だから知名度も低く、日蔭の人だ。
 でも、彼の文章は好きだった。
 
  
 大正まで生きてゐた、郷里の老婆たちは、何年かに一度くらゐ、法隆寺へ詣でた。数十年以前には、彼女らは金堂内陣の壁画を、わが手でなでて、堂巡りをしたと言つた。信仰の対象だから、素朴善良の人は、わが手わが身で、ぢかに仏にふれたかつたのであらう。千三百年間に、さしてすりへりもしなかつたことを、以前から感心して思つてゐた。美術品に手でふれることは、古文化保存の教養のない証拠と言はれるかもしれないが、仏像仏画にわが生き身でさはるといふことは、ときに本来の信仰の自然のやうにも思はれる。私はこれを野蛮とか、幼稚だといいきれない。私がさういふことをしたがらないのは、私に熱つぽい信仰心がないゆゑであらうと思ふだけである。(『日本の美術史』「大和朝廷時代」)
 
  
 おおらかで、ちょっとボケた感じがある。偏屈ではあるが、底には大きな感情が湛えられていて、ときに山脈のように仰ぐ感じがあり、冷たい清水のように鋭くなる瞬間もある。鋭い直感とだらだらした感じ(?)がないまぜになり、不思議な文だ。
 初めて読んだ時にクセの強い文章だと思う反面、いいことを言うなあと感じた。文化とはガラスケースごしに眺めるものではなく、暮らしの中に息づいているものだということを保田は言っている。
 奈良、というところもよい。
 奈良は京都や他の地と比べて格段に文化の古い地だ(古すぎて何だか分からなくなるほどに)。保田は、そんな古代の暮らしぶりをそのまま現代に貫かせるための意識のありかを、具体的なエピソードを重ねることで述べようとしている。
 
 
 私は唐招提寺の古いころの案内人のおしやべりが好きであつた。社会科の本を読むやうな案内ではない。標準語にすることのできないやうな、方言の世界で、その老婆は、美術や国宝を語らず、仏を人のやうに説明してゐた。昔の人は水とお粥だけのくらしで、このやうな立派な仏を作られたのだから、美食と贅沢をつくして仕事をされる今の人に、どうしてもつと立派なものが作れないのだらうかとその老婆はきいた。(中略) 
 斑鳩あたり、古都も寺も塔もうねうねと一線にならび、頭をめぐらすと、二上にしづむ夕日はぶきみなくらいに大きく赤い、春の大和こそ、大和の景観である。暮れ遅い春の日永をかこつものうさのはてに、暮れはてた日に悔いを残すやうなけだるい感銘は、奈良を少し西へ、斑鳩や冨の小川あたりで頂点に達する。(「奈良あない」)

  
 
 こういう一節を読むと、保田いうところの“日本文化”は学校で政治事件の年号や古典の助動詞を覚えるだけの授業や、展覧会などで美術品として尊ぶのと異なる気がした。
 そして保田が例にあげるのは奈良の地ばかりだったので、読んでいるうちにその寺社を、景色を確かめたくなり、彼の本を片手に奈良を訪ねることとなったのである。
 振り返ると夢のような日々だ。
  
 
 下はその時の奈良の写真。何年か前の八月頃、どこで撮ったかは忘れたが、陽ざしが強かったことを覚えている。
 
 

 
 
(BGM):Led Zeppelin [In The Light] (1975)
 
posted by dear prudence at 00:20 | Comment(4) | TrackBack(1) | 読む